2011年7月13日水曜日

最近観た映画。名作揃い。〜『八日目の蝉』『奇跡』『ブラックスワン』『ゲンズブールと女たち』

 たまってしまっていた最近観た映画。今回は名作揃いでお薦め感が満載なり。


 『八日目の蝉』
 とても評判が良くて、興行的にも成功しているみたいだけど、確かによくできた映画だ。井上真央(が主役って観終わるまで気づかなかった)スゴいね。永作博美も超熱演。演技力に圧倒される。

 物語が、女のたくましさと情の深さが主題になっていて、男性は影が薄い。女性の女性による女性のための映画って感じ。男って、いい加減で、情けない存在だなって、突きつけられる。「すみません、、。m(_ _ )m」って気持ちにさせられた。
 中絶させられた愛人が、妻が産んだ赤ん坊を誘拐して、逃亡しながら、愛情豊かに育てるが、4年後に捕まる。その娘が大学生になって、、という設定なのだけれど、特異な状況と思わせない迫真性がある。
 残念だったのは、ラストシーン。エンディングで主題歌「Dear」(中島美嘉)が流れるのだけれど、感動が台無し。こみ上げてきた涙が引いてしまった。歌詞がある事で、イマジネーションを狭める事ってあるなと、音楽プロデューサーとして身につまされた。曲自体はJポップとして、とてもよくできている作品なだけに、よけいに残念。ギョーカイ人としては、もしかして何かご事情がおありかもとご推察申し上げるけれど、作品の傷になるのは、やっぱり駄目だよね。イメージソングとしては素晴らしいのだし、TVスポットCMで散々、聞かせてあるんだから、ラストはオーケストラバージョンで始めれば良かったのに。インストルメンタルでドラマと少し馴染ませてから、歌が入ってくれば、随分印象が違ったと思う。


 『奇跡』

 これも友人たちから評判が高かったのだけれど、スゴく良かった。僕は、子供と年寄りが主役の映画は、敬遠しがち。そもそもの設定が「反則」という気がするし、お涙ちょうだいにしようとしている?って感じ。もう一つ告白すると、是枝監督の世界も、あまり好みじゃない。小説家の文体のようなものが、映画監督にもあると思うんだけれど、その「文体」が、肌に合わないんだと思う。そんな僕が、すごく良いというのだから、名作だよ。
 上演時間が127分でちょっと長い。人間関係やタイトルの「奇跡」何を指すのかがわかるまで、最初の30分間は半分位に編集すれば良いのにと思うのだけれど、説明を省いて、淡々と描くのが是枝流なんだろうね。認めざるを得ない。
 子役達の演技が不自然さが無く、抜群。周辺の大人の俳優陣も好演。オダギリジョーと大塚寧々もよかったけど、鹿児島の実家の祖父母が、橋爪功と樹木希林というのが、贅沢だ。
 淡々として、特に事件の無い映画が、興行的にも成果を収めるのは良いことだと思う。九州新幹線の開通の話なので、JRとはタイアップしているみたいだけど(裏事情は何も知りません)全然、嫌みじゃなく良い形だと思う。クライマックスのトンネルとか実在するのだろうから、観光名所になるよね。地方振興に映画が貢献する例が増えるのは嬉しい。


 くるりの音楽も素晴らしい。前述の『八日目の蝉』と違って、エンディングで曲が掛かると、ぐっとくるのは、音楽家と監督の距離が近くて、必然性が濃いからだろう。本編の中でも、モチーフが使われているしね。
 ということでオススメです。


 『ブラックスワン』

 大名作!アカデミー賞作品賞は、何故、これじゃなかったの?と思った。鬼気迫るナタリー•ポートマンの演技は歴史に残るレベルだから、主演女優賞は当然として、作品としても、『英国王のスピーチ』より、断然こちらを推したい。って、もう遅いけど^^;
 ニューヨークのバレエ団で主役に抜擢されたバレリーナが、ものすごいプレッシャーを感じて、様々な幻覚も見る。幻覚のシーンは、ホラー映画のような怖さ。心身ともに追いつめて技量を磨いていくバレリーナのストイックさが、よく描かれているのだけれど、この感覚は、すべての芸事に通じると思う。本番前は自分を追い込んでいくのが、表現者というもの。音楽業界でもスタッフの条件の一つは、ナイーブになっているアーティストと同じ楽屋に居られるかどうかだ。何かあればフォローするのは、当然だけど、黙って近くに居ても、アーティストに気を遣わせない存在、関係性になるのは、マネージャーには、マストの資質だ。僕は冗談で「俺たち危険物取扱主任一級の免許を持ってるみたいだよね。」と言っている。


 そういえば、演出家の鈴木裕美が「翌日に本番や大事な稽古のある俳優は気をつけて」とツイートしていた意味が分かった。情緒豊かな女優や歌手が見たら、主役に感情移入して食あたりのように、「アタって」しまっても不思議は無い。決して悪い事ではないけれど、翌日の表現には支障があるかもね。


 子役出身の大女優は少ないと言うけれど、ナタリー•ポートマンは、着実にハリウッドを代表する女優の一人になるだろうね。記念碑的作品。特に、舞台と並行して進むラスト15分は、最高。
 音楽は、クリント・マンセル。「白鳥の湖」の音楽の変奏でつくられていて、非常にレベルが高い。作品に求心力を与えている。チャイコフスキーの曲が元ということで「作曲賞」には資格がなかったらしいけれど。
 蛇足だけど、もしこれが日本映画だったら、バレエシーンは吹き替えだろうなと、ふと思って、寂しくなった。ナタリーは8割以上のシーンを踊っているそうです。っていうか、全部かと思ったよ。全然気づかない。
 以上、絶賛です。もう一度観たい。


 『ゲンズブールと女たち』

 今回は、褒めてばかりだけど、これもスゴく良かった。
 セルジュ・ゲンズブールは、言わずとしてたフランスのソングライターでシンガー。プロデューサーとしても、多くのシンガーを世に送り出している。たくさん有名女優、歌手とも浮き名を流しているのだけれど、そのゲンズブールの人生を描いた作品。
 全編で、ゲンズブールの歌が使われていて、素敵な「音楽映画」でもある。僕は、シャンソンって、古くさい印象で興味なかったけど、これを観て、初めて良いと思った。言葉もとても大切な音楽だから、フランス語が少しでもわかると、もっと楽しめるのにと悔しい。歌っているシーンが物語と関わっているので、歌詞も全部字幕で出ているんだけど、この日本語訳がとてもいい。(古田由紀子さん)自然に入ってきた。おそらくスゴくレベルの高い翻訳作業なのではないかと推察した。
 ただ、シャンソンを本当に楽しむには、ある程度のフランス語の素養は必要だよね?そのくらい、言葉と旋律が結びついている。Jポップは、日本語の伝統的な発音をある程度壊して、つくってきた歴史があるよね?外国人が日本語歌詞で歌うのをディレクションすると気づくことだけど、母音の発音を相当変えても、Jポップとしては不自然じゃない。桑田佳祐以降かなと思うけれど、母音部分を「ア」でも「エ」でも「イ」みたいに発音しても、文脈から類推してくれる歌なんて、他の国ではあり得ないんじゃないかな?フランス語に殉じたシャンソンとの違いを知って、Jポップ、Jロックが海外でも受け入れられるのは、日本語の発音を曖昧でもよくしたこと(つまり、日本語ネイティブの語感を知らなくても歌のニュアンスが楽しめること)と、関係あるんじゃないかと思った。まだ、ジャスト思いついただけだけど。今後、意識して考えてみたい。


 レティシア・カスタが演じるブリジットバルドーも、ルーシー・ゴードン演じるジェーン・バーキンも、スゴく似てた。写真で見る本物より本人っぽい感じ。もちろん主役のエリック・エルモスニーノもめちゃリアル。
 美しい女性と美しい音楽にが溢れる映画らしい映画。醜男でユダヤ人なのが、ゲンズブールのコンプレクッスだったと言われているけれど、幸せな人生だよね。無頼派で無軌道な人生だけど、名曲もたくさん残したしね。これは、没後20年記念映画らしい。
 フランス映画だからだろうけど、それにしても煙草を吸い過ぎ。この映画の中で、ゲンズブールは何本、吸ったんだろう?脳梗塞で倒れた入院先でも吸ってたし。



 『美しき棘』

 フランス映画祭で上映された作品。新進女流監督の作品らしいけど、たぶん失敗作ないしは、意欲作?
 パリを舞台に、女子高校生の悩みみたいなものを描いているのだろうけれど、現代フランス事情を知りたい人や、欧州の若手映画監督を押さえておきたいというような人以外は、観なくていいですっていう感じ。
 というか、日本では公開されないんじゃないかな。



 以前は、誰かと約束しないと観たい映画を逃していたけど、最近は、隙間時間を使って、映画を観るのが上手になってきた。いろんな事を考えさせられ、異文化に触れ、感性を刺激されって言葉にすると、こっ恥ずかしいけど、映画を観るのは続けよう。
 今後は、できるだけ試写会か公開直後に観て、即、ブログでも紹介するようにします。情報としては遅すぎるよね、ごめんなさい。

2011年7月12日火曜日

反原発とヒロシマモナムールと静岡県 〜『ヒロシマモナムール』『小谷元彦展/幽体の知覚』


 先月、静岡県立劇場の芸術公演で行われた演劇『ヒロシマ・モナムール』を観てきた。静岡県は、「静岡パフォーイングアーツセンター(SPAC)という劇場とスタッフと俳優養成の仕組みを持っていて、友人の宮城聰さんが芸術監督を務めている。そんな縁もあって、劇場には何度か訪れた事はあるのだけれど、舞台芸術公園は始めて行った。新幹線の静岡駅の隣の東静岡駅から車で5分くらい坂を登ったところにある公園は、茶畑や森があって、素晴らしい景観だった。「楕円堂」というホールはその名の通り、楕円形をしていて、木造の古いお寺のような建物。天井も高くて、中に居るだけで、芸術的な雰囲気がする。


 『ヒロシマ・モナムール』は、フランスの女流作家マルグリット・デュラスが、1958年に書いた映画用の戯曲。もちろん、原爆後の広島を舞台にしていて、映画撮影のために広島を訪れたフランス人女優が、日本人の建築家と恋に落ちるという話。官能的な内容だ。フランスで舞台化されたのをSPACが招聘したようだ。

 原発事故は想定外だった筈だが、こんな時に公演された事も印象深い。外国人の耳には「ヒロシマ(仏語だとイロシマ)」と「フクシマ」は韻を踏んでいるような、似た響きになる。フランスの主催者は来日を渋ったが、出演者が強く望んでくれて実現したそうだ。ベッドシーンは全裸に近い状態で、照明も暗く、フランス語の台詞を字幕で追いながらの観劇は、集中力が必要だったけど、深みのある戯曲がよく消化されていて、深い感銘を受けた。ものすごく遠回りで、わかりやすい手法ではないけれど、アンチ原発を訴えているんだよね。
映画はDVD化もされている。終演後のアーティストトークで主演女優のヴァレリーが、二十四時間の情事』という邦題なっているのは残念と、言っていたのが印象的だった。公開当時は日本では、現代のままの公開は難しかったらしい。舞台はなかなか観られないだろうから、
興味を持った方はこちらをどうぞ。


 せっかくだったので、静岡県立美術館の小谷元彦展にも足を伸ばした。森美術館でやっていたのを見逃していたから。美術館のロケーションも素晴らしかった。常設がロダンの美術館も、館内にも余裕があって、ゆったりと観られる。
展覧会の内容も、すごぶる良かった。彼の作風を「身体感覚を揺さぶる」みたいな説明があったけれど、まさにそんな感じ。水が流れている映像に囲まれた箱みたいななっていて床は鏡。時間の滝を上下するような体験。ほかにも、髪の毛で編まれた衣服とか、僕らの常識を揺り動かしてくるのだけれど、どれも美しさがある。72年生まれだけど、どんな奇才だろう思ったら、作品風景を紹介している映像があって、結構、まともな人な感じだった。
もちろん脳みその中の狂気はわからないけどね。


 市場原理では成立しないだろう、劇場と美術館。きちんとした企画と運営で続けている静岡県は、本当に偉いな。芸術を自治体が支援するのは欧州型と言えるけど、中途半端に日和見しないで、ポリシーを貫いて欲しい。情報公開と明確な哲学があれば、納税者も支持すると思う。
 静岡県のSPACは国際的な視野で、様々な作品を上演しているので、興味のありそうな時は、是非行ってみてください。渋谷から無料バスを出したりもしているらしいよ。
宮城さん(仲の良い人たちは、「みやちゃん」と呼びます)は、クナウカという劇団を始める前にミヤギサトシショー」というソロ企画のプロデュースを4年くらいご一緒したけど、誇るべき友人の一人です。




2011年7月8日金曜日

最近観た映画『マイ・バック・ページ』 『somewhere』 『引き裂かれた女』 『悲しみのミルク』 『劇場版 神聖かまってちゃん』

映画の記録はまとめて書こうと思っていたら、随分、時間が経ってしまった。本数もたまっちゃった。
最近、ブログを読んでくれる人も増えているので、映画についても参考にしてもらえるように、できるだけ試写会か公開直ぐに観て、テンポよく書くようにしよう。


『マイ・バック・ページ』
久々に日本映画を観て、ガチンコで感動した。
全共闘の運動家(松山ケンイチ)と、新米新聞記者(妻夫木聡)が主人公だけど、学生運動には、思い入れは無い。全共闘世代には煙たい印象。若い頃は酒席とかで、下の世代として「世の中を悪くしたのはお前らなのに、なんでそんな偉そうに語るの?」て、漠然と思ってたくらい。
山下監督は、僕よりももっと若い。この映画は、ジェネレーションは関係なく、共感できる内容だと思う。過激派と呼ばれ始めた頃の運動家の底の浅さと、メディアや警察の対応など、昭和40年代前半の世相が上手に描けている。
でも、僕はこの映画は、もっと普遍的な魅力があると思う。青春という言葉だとあまりにも陳腐だけれど、誰もが持っている心の奥に疼いているほろ苦い何かを刺激してくる。泣きそうになった。正直に言うと、ちょっと泣いちゃった。
噂によると、興行的には成績がよくないらしい。おそらくはこの作品に思い入れがあるのだろう、人気と実力を兼ね備えた俳優陣が熱演している。山下監督は、前作『リンダリンダリンダ』も素晴らしかったし、最近の日本人若手監督ではピカイチだと思う。DVDでもいいから、みんなに観て欲しいな。好きな映画ほど、言葉で伝えるのは難しいんだけど、これは、マジで、絶賛です。オススメしたい。


 『somewhere』 
 以前、『Lost in translation』を観たときから思っていたんだけど、ソフィア・コッポラには、是非、ミュージッククリップを撮ってもらいたい。予算は、スゴくかかりそうだけどね^^;

 なんと言っても、コッポラの娘だから、子供の頃から超一流のクリエイターや、ハイセンスな物に囲まれていたんだろうね。映像の感覚が、「お洒落感」にあふれている。

映画の感想を男女で分けるのは不適切かもしれないけど、男的に言うと「本当に映画つくりたいの?」って疑問がある監督でもある。この映画も、全然、感動はしないし、感情移入もできないんだけど、「雰囲気が素敵」という意味では、100点。
家庭に不適合で女性にモテまくる俳優なんて、自己投影してもよいような主人公なのにね。「リアリティが無い。でも、別にリアリティなんて無くていいのかもね?」という感想です。ヒネクレタ感想でごめん。でも、多分、次作も観るよ。


『引き裂かれた女』
 すごく良かった。
フランス映画らしい「哲学的」な部分が、恋愛に上手に集約されている。
設定自体はありふれている。美しく奔放な娘が、強く求愛する大金持ちの息子よりも、親子ほど年の離れた男を愛してしまうという話。  「引き裂かれた女」のフランス語のニュアンスまではわからないけれど、このタイトルには、いろんな意味が込められているのだろうね。
主役のリュディヴィーニュサヌエが、無茶苦茶かわいい。だいぶ惚れました。


『悲しみのミルク』
何と、ペルーの映画。
「東京エスムジカ」というエスニックベースのJ-popグループを考案した位だから、欧米以外のカルチャーに興味があるんだけど、そんな僕も、さすがにペルー映画を観たのは、初めてだと思う。
観た後に、女性監督だと聞いて、ちょっと意外だった。感傷的な部分の繊細さは男性監督の感覚に思えたから。でも、よく考えたら、ペルーの迷信を信じて、「貞操を守るために、女性器に芋を入れてる娘」なんてエグイモチーフは、男じゃ無理で、女性監督じゃ無いと描けないかと、考え直した。
南米に行ったことは無いけれど、ペルーの貧しさと懸命さがよく描かれていると思う。
全体に、説明的な要素は少なくて、映画らしい映画。オススメです。


『劇場版 神聖かまってちゃん/ロックンロールは鳴り止まないっ』
 この数年間で、日本の音楽業界、音楽シーンで最も話題になったのは、「神聖かまってちゃん」というバンドだ。ライブでの奇行に近い逸話の数々。ニコニコ動画等を活用したプロモーション。インディーズロックバンドとして、古さと新しさが共存しているのが魅力なんだよね?
この映画も、おそらくは監督が「かまってちゃん」のファンなんだろうなって思えて、好感が持てる。
日本のインディーズバンドには、頭脳警察や有頂天やBUCK-TICKやスターリンや、その他沢山の先達が居て、このバンドも、褒め言葉として、その系譜上に位置づけられるのだと、僕は勝手に思っている。
観客に夢を見せることができるというのが、一番大事なんだと、改めて思ったし、そう感じさせてくれた。映画のカタルシスの在り方も、良い意味でオーソドックスな古さがあった。嫌いじゃ無いよ。


そんな充実の映画ライフだった。あと、DVDで観た二つの映画
『シャネル&ストラヴィンスキー』『最後の忠臣蔵』がスゴク良かった。これもオススメです。

2011年7月6日水曜日

日本の音楽配信事情2011 〜ジャーナリストや評論家に音楽ビジネスの間違った認識が多すぎる!〜

 デジタルの近未来予測や電子書籍の本で、音楽業界事情を引用される事は多い。これまでも何度か指摘したけど、高名な方で、全体の趣旨は正しくても、音楽ビジネスの引用は事実誤認が多い。おそらくちゃんとデータを調べずに、書いているのだろう。やめてほしい。
音楽業界側に説明する姿勢が無かったという反省はあるので、取り急ぎ、ブログでまとめてみた。
 
 読んでない本の事を採り上げて申し訳ないけど(すいません。急いで読んで、本そのものの感想は別途に書きます。)友人の引用&紹介によると、本田雅一著『これからのスマートフォンが起こすこと』(東洋経済社)には、


 「音楽のデジタル配信において日本はあまり良い事例を残すことができなかった。あれほど導入時に抵抗の強かったiチューンズ・ミュージックストアが、日本の音楽デジタル配信の中で圧倒的な存在になっている」


 と書いてあるそうだ。
 前後の文脈がわからないけれど、この文章そのものは、不正確だ。


 アイチューンミュージックストアの日本での売上げシェアは2%程度。音楽配信での割合でも7%程度だ。CDが諸外国に比べて売上の減少が少ないのと、モバイル配信が中心なのが日本のマーケットの特徴だ。日本は、先進国で唯一、アイチューンストアが失敗しているというのが、2011年現在の状況だ。
 また、「着うた」という名称で、モバイルで配信が広がった。こちらは「レコード会社直営サイト(通称レコ直)」を中心に成功している。(スマフォが中心になる市場には対応できていないので、成功していた、というべきかもしれない。)もともとは、着信音向けで始まったが、「着うたフル」という楽曲全部をダウンロードさせるサービスも、それなりに定着した。レコ直は、この10年間で唯一と言ってよい、大手レコード会社の「成功事例」なのだ。


 佐々木俊尚さんの『電子書籍の衝撃』にも同様の間違いがあり、それについては、以前書いたので、繰り返さないが、同じく佐々木さんの『キュレーションの時代』に関して。ネット上に趣味嗜好別に人が集まる事を「ビオトープ」(生息空間)という言葉で説明している。これが、ソーシャル時代特有と捉えている観点が違うと思う。
 音楽では、インターネットができる以前から、「ビオトープ」のような機能はあった、それはジャズ喫茶だったり、同人的な情報誌だったり、ある時期は深夜ラジオだったり、CD店だったこともある。
 「Hi-STANDARD」というパンクバンドがインディーズでCDを30万枚以上売った時には驚いた。まったく無名の沖縄のバンド「MONGOL800」は、タワーレコードがプッシュしたことで200万枚売れた。宇多田ヒカルのデビュー曲『automatic』は、地方FM局のパワープレイで火がついた。自然発生的に、趣味嗜好の同じユーザー同士のクチコミからヒットが生まれた例は、音楽業界にはたくさんあるのだ。
 僕はむしろ、これだけソーシャルメディアが発達してきているのに、それを活用した成功例が「ほとんど無い」ことに音楽業界の問題点を感じている。佐々木さんの『キュレーションの時代』とは、広義の環境認識は同じだけど、音楽ビジネスへの見解は真逆だ。
(その成功例をつくるのは自分の仕事だと思って、頑張っている。以前「Sweet Vacation」というユニットで、デジタル活用PRは全面的に試している。興味のある方は、拙著『ソーシャルネットワーク革命がみるみるわかる本』(ダイヤモンド社)をご覧ください。)


 評論家やジャーナリストの皆さん!デジタルなり、ソーシャルなりで音楽ビジネスを引用する際は、
 ●日本ではアイチューンミュージックストアが失敗している
 ●ソーシャルメディア活用のビジネス的な成功例が、まだほとんど無い。
 ●音楽配信で成功したのは、大まかに言うと「レコ直」だけ。
という3点を押さえて、諸外国と比較しながら、論証してください。米国とごっちゃにしたり、何となくの気分で書くにはやめて欲しいです!!


 余談だけど、昨日出席した「デジタルコンテンツ白書2011」の編集会議で「神聖かまってちゃん」の動きが面白いという話になった。好きなバンドだけど、僕から見ると、活動のやり方そのものは、ツールが違うだけで70年代の「頭脳警察」や80年代の「有頂天」などのアングラ的な動きと共通するものを感じる。そして、何よりまだビジネス的に大成功している訳じゃない。
 本質を見ていかないと、正しい未来予測はできないんじゃない?


追記:読まずに書いて申し訳無かったので、改めて書評+αを書きました。『気がつけばコンテンツと呼ばれて~』を読んでみてください!


山口

2011年6月20日月曜日

ホリエモンの収監と日本の劣化への不安

 堀江貴文さんが検察に出頭して収監された。二年半の実刑判決が出ているので、このまま2年間(逮捕時に拘留されていた分は差し引かれるんだよね?)は、塀の中で暮らすことになる。
 この事件は、いろいろな事を考えさせられた。
 
 まず、思ったのは、「お上にたてつくと、本当に刑務所に入れられるんだな」ということ。裁判そのものの是非は一旦、置いておくとして、犯罪の性質から言っても、過去の例から言っても、執行猶予がつかないのは「常識外」で、「見せしめ」という言い方がされているけれど、正確に言うと、検察が「舐められたと思って意地になった」というのが実際のところだと思う。以前、おそらくは冤罪と思われる国策捜査で実刑を受けた佐藤優氏によれば、検察は、戦前の陸軍のような、社会正義に燃えてやっているのだそうだ。彼らにとっては、検察の権威を守る事が、日本の国にとって必要な事だと言う思想なのだろう。

 ところが、実際に起きている現象は、日本の国力を下げている。堀江氏は収監された事で、より注目され、人気もあがっている。もし、彼の影響力を下げたいのなら、今回の収監は間違いなく大失敗だ。そして、ホリエモンを支持、ないし同情的な人たちからは、検察と裁判所は「仲間」で、誰にでも「公正」な訳ではないと、確信したと思う。司法に対する信頼と権威は、非常に落ちてしまった。不公平なだけじゃなく、視野が狭すぎて、作戦としても間違っている。

 「悪い事をすると刑務所に入れられる」とみんなが思っているのが、牧歌的かもしれないけれど、平和な社会だよね?「運が悪かったり、検察にたてつくと刑務所に入れられる」とみんなが思うようになると、犯罪に対しても不感症になるのではないかと心配。泥棒をして刑務所に入ったのは「悪い事をした」からではなくても、「運が悪かった」からと、子供たちが思うような社会は僕は嫌だ。でも、今日、ニコニコ生放送の中継を見ていた小中学生がいたら(多分、結構な数がいたよね?)、間違いなくそう思うだろう。僕が司法が愚かだと思うのは、そういう意味だ。

 別の視点で言えば、経済活動をさせれば優秀で、彼なりに愛国心もあるようだから、放っておけば、日本の国に多額の税金を納める人だ。わざわざ刑務所に入れて、税金を使って、飯を食わせる理由が、理解できない。

 ちなみに、僕自身は、決して、「ホリエモン擁護派」ではない。彼の言動は、シャイな偽悪者なのかもしれないが、田舎臭いし、下品な事も多くて、手放しに好きにはなれない。また、天皇制を否定して大統領制を発言するなど(これが徹底的にやられた一つの大きな理由ではないかと思う)既存勢力に戦いを挑むには、稚拙すぎた。
 わかりやすい表現だったから人気も出たのかもしれないが、本気で社会を変えようとするのなら、あんなやり方では無理だ。摩擦が大きすぎる。反対勢力に足をすくわれたのは当然と思う。

 ただ、刑務所に閉じ込めるのは、やり過ぎだ。
 
 ちょっと劇画的な説明になるけど、日本の権力中枢に智慧者がいれば、彼に「はねっかえり」な行動を反省させながら、ばりばり仕事をさせて、日本の国の活力にするように、しむけるだろう。異質なものを上手に使いこなす柔軟な構造な社会を持った国が、国際競争上も強いはずだ。
 今回の日本という国の行為は、お転婆な暴れん坊を持て余して刑務所に入れるという、非常に愚行だったと思う。

 原発事故で露呈した、東電×経産省×学会の「原子力ムラ」も、そうだけど、日本のエスタブリッシュメントは、いつからこんなに愚かで無能になってしまったのだろう。

 僕は、大学も出ずに就職もせずに、音楽なんて仕事もしているし、基本的には「反権威」で仕事していたいと思っている。ただ、権威が曖昧だったり弱かったりすると、そもそも「反権威」が成り立たない。巨人軍が弱い時のアンチ巨人ファンのように心もとない。

 腹黒でムカつくけど、いざとなった時は、巧妙に社会の善と自分の得を摺り合わてくるような、ちゃんと悪い奴が国家の中枢には居てほしいと思う。
 こんな事をしていたら、中国人やユダヤ人はもちろん、アングロサクソンにも勝ち目が無い。日本という国はいつまで成立するのだろう。世界の一流国(って何かの定義は簡単じゃないけど)として、いられるのかどうか、心配だ。
 
 ホリエモン収監時の僕の感想。日本の国を憂いて、暗澹たる気持ちになった。


 でも、こんだけイジメられも、基本スタンスを変えないホリエモンは、驚異的だね。感心する。
 彼が見せつけてくれた事(できれば、見たくなかったけど)を、プラスに変えていくようにしなくちゃいけないんだろうな、とも思っている。

追記:収監から4ヶ月近く経って、まぐまぐ大川社長のツイートで、堀江氏に1億円を超える有料メルマガの原稿料が払われたことが発表された。上記の内容を一点だけ、訂正。ホリエモンは塀の中に居ても、金を稼ぎ、日本に税金を払っている。刑務所の中だと、必要経費が使えなくて、多くの税金を払うことになるかもね^^

2011年6月13日月曜日

原発に関する論議で気色が悪いこと。〜「反原発」「脱原発」の前に〜

 福島原子力発電所の事故をきっかけに、「反原発」や「脱原発」の運動が盛んになっている。一方で、原発を「擁護」する論陣も見られる。多様な意見が発表されるのは良いことだと思うけれど、大切なことが抜けているように感じられて、気持ちが悪い。

 今回の事故で、異論が無いのは、東電の経営陣と一体となった経済産業省とそのOBや御用学者と呼ばれる人達、いわゆる「原子力ムラ」で利権を得ていた人達は許せないということだろう。僕も全面的に賛成だ。この機会に、原子力ムラを根本的に解体することは、社会正義の面でも、日本の国力を上げるためにもマストだ。

 個人的には、一番許せないのは、彼らが「利権をむさぼっていたこと」よりも、「国の危機状況でまともに機能しない、能力も気概も無い人達だった」ことだ。
 おそらくは、最初に「原子力ムラ」の利権構造を作った人達が、死んだり、引退したりして、その枠組みのなかでヌクヌクとしていた人しか居なかったのが理由なのだろう。優秀で無ければ、利権構造をつくることはできない。でも、できあがった構造を守るだけなら、能力の低い人達でもできるのだろう。日本が、そんな保身だけの爺達をのさばらせてしまうような仕組みを修正できずにいた事は、落胆するし、反省もする。
 
 この機会に、「原子力ムラ」の解体を徹底的にしなければならないと思う。


 ただ、そのことと、原子力発電所の是非は、安易に一緒にすべきじゃない。「反原発」の人達の論旨は、「原発は人類の悪」的なものが多くて、気持ちはわかるけれど、辟易する。「自然エネルギー」という言い方にも欺瞞の匂いを感じる。

 一方で、原発「擁護」の人達は、経済学的な視点からの発言は多いけど、「電気料金が二倍になってもいいのか!」って、脅しているみたいで気分悪いよね?経済学者はいろんな計算をするけれど、経済学って変数だらけの学問だし、突き詰めると、多数決で決まっていくことだから、現状を前提に、電力料金の試算をしても、仮説に過ぎないでしょ。だから、経済合理性で原発は無くせないというのも、僕は全面的には信用しない。(データ分析や考え方など経済学から学ぶべき事は多いと思う)

 そして、自然との調和という観点で語るなら、人類はもっと謙虚になるべきじゃないか?「原子力だけが特別に悪くて、風力ならばっちり大丈夫」と思っているとしたら、ちょっと、どうかしている。僕は、エネルギーと言われるもの(端的に言うと電気)を使うのは、「程度問題」だと思う。

 例えば、ヒトは数万年前に「火」を使うことを覚えた。最初は火事を起こしたり、すぐ消えてしまったり、コントロールすることは難しかっただろう。今、僕たちは、「火」は操れると思っているけれど、実際は、今でも火事は沢山あって、人が死んでいるし、オーストラリアや米国の山火事なんて、生態系に影響を与えることもある。でも、その程度のマイナスであれば、プラスの方が大きいと人類は判断しているので、「火を使うのを止めよう」という運動があるという話は世界中で聞いたことが無い。

 文明生活を送っている限り、自然との調和を乱しているという意味では、本質的には同じだ。狩猟生活に戻らない限り、僕らは、自然を壊しながら生きている。

 自然破壊を容認したいのじゃない。もちろん逆だ。僕も「原子力発電所」はどうしますか?という投票があれば、「No」に入れるつもり。ただ、それは「原子力が悪」だからではなく、放射能汚染が、他のあらゆる公害と比べて、質的に酷いと思うからでは無い。「原子力発電は、まだちょっと無理かもね。」という意見だ。

太陽光発電を大規模にやり始めたときに、人の健康を害さないという保証はどこにもない。僕は物理学には明るくないけれど、パネルから大量の電磁波が出て、生態系に影響を与えたり、妊婦や幼児は近づかない方が良いとWHOが発表するみたいなことは、十分にあり得るはずだ。(そして、太陽光発電が新たな利権構造を産むかも知れない。)

僕らは、人類は自然をコントロールできず、文明生活を維持するためには、何らかのデメリットが起きる可能性があるということを知っておくべきだ。その中で、少しでも「ベターと思えること」を愚かな知恵を集結して選んでいくしか無いのだ。「原子力はちょっとダメ過ぎだね。太陽光発電の方が少しマシなんじゃない?」という風に選ばないと、また、間違える。

ちなみに、発電の仕組みにばかり目が行きがちだけど、おそらく送電の仕組みの改善(分散型)や蓄電池の開発に、もっともっと力を注ぐべきだと思う。


それから、原子力に関して、もう一つとても大切なこと。僕たちは、優秀な原子力工学の研究者を必要としていることを忘れちゃいけない。仮に、明日、世界中の原発が止まっても、核廃棄物の処理はしなきゃいけないし、そもそも核爆弾もある。日本の国益のためにも、世界の平和のためにも、唯一の被爆国の責務というなら、日本は優秀な原子力研究者をどんどん輩出すべきではないか?原子力がタブーになって、NGワードにしてはいけない。このままじゃ、日本の大学から原子力工学科が無くなってしまう。


政府の中途半端な情報操作は論外だし、故郷を失った人達や乳幼児への影響を思うと、本当に胸が痛むけれど、情緒論ではなく、日本人ならではの「中庸の知恵」で、この事態に対処したい。

『写楽展』とか『森と芸術』とか『黒田清輝オマージュ』とか。

ヨーロッパやアメリカに出張している時は、早起きして、街の美術館や博物館に行くけれど、不思議なもので、東京だとなかなか時間が取れない。
でも、東京にも良い美術館や展覧会が増えてきていると思うので、仕事の合間でも、やりくりして、少しでも覗いて、刺激を受けたいと思っている。
ということで、最近行った、展覧会のまとめ。自分のためのメモって感じですが。


『写楽・特別展』(東京国立博物館・平成館)

浮世絵が美術的な価値を与えられたきっかけはフランス人だったせいか、写楽の作品も海外の美術館が持っているケースが多いみたい。この展覧会もボストンやらパリやら世界中から集められていた。
ライバル絵師との比較や第一期~第三期の作風の違い、刷り方による色味の違いなど、比較の仕方がわかりやすかった。

今更だけど、写楽の第一期の役者絵のポップ感は、抜群だな!と思った。
日本人と違って周辺情報を持たず、脈絡無く、この絵を見た西洋人が仰天したのは、当然かも知れない。

僕は職業柄、写楽を売り出したプロデューサーの蔦谷重三郞に興味が行く。短期間に消えた絵師、写楽が誰だったかは、江戸期の最大のミステリーの一つ、蔦谷の自演説もある。以前、『写楽殺人事件』というミステリー小説も話題になったよね。あの頃に読みそびれたので、改めて読んでみようと思った。
江戸期の大衆芸能を日本の一つの原点にとらえる論調は、昔から多いけど、日本のポップカルチャーの特徴について考えていると、外せないポイントだなと改めて感じる。


『森と芸術』(東京都庭園美術館)
キュレーターの能力が伝わってくる意欲的な展覧会だった。人間と森との関わりを、森に関する芸術から解き明かすというコンセプト。

狩猟生活から農耕生活に変わった時から人類は森への憧れを持っていたという話から始まり、アダムとイブの林檎や、ケルト人の文化など、関連する絵画が飾られる。森に関心を持った画家が、こんなにいたのかというのは驚かされた。ヨーロッパの小さな村で作られる玩具もあった。

日本人にとっての森という話からジブリアニメに結びつけ、最後に美術館がある白金の森の記録を見せるという流れは、見事なオチだった。まさに古今東西の森からピックアップしながら、強引さを感じなかったのは、キュレーションに教養と確信があるからなんだろう。こんな展覧会をまた観たい。

「森ガール」風の女性客が多かったのも微笑ましかった。7月3日までやってます。


『ラファエル前派からウィリアム・モリスへ』(目黒区美術館)

庭園美術館と同じ目黒駅が最寄りと言う事で、ちょっと寄り道してみた。

産業革命期のイギリスで中世への回帰があったというのは知らなかった。労働の疎外からコミュニティに憧れるということらしい。当時のイギリスで権威だった、ルネッサンスの有名画家ラファエルより前の価値観を取り戻そうという芸術運動だったそうだ。クラフト的な商品をたくさん産み出したウィリアム・モリス商会も、そのラファエル前派の影響を受けていたというのは意外だった。
まったく不案内で知らない世界だったけど、歴史って面白いな。

こちらも7月12日まで。



『黒田清輝へのオマージュ、智・感・情』(KAIKAI KIKI GALERRY)
村上隆さんは、尊敬する日本人アーティストの一人だ。『芸術起業論』も読んだけど、創作活動に身を投じながら、同時に日本の画壇を痛烈批判して、海外に活路を見いだし、日本人の優位性を最大限活かして、経済的にも成功しているのは素晴らしい。恵まれた音楽業界でチャンスを与えられながら、責任転嫁ばかりしている日本の若手音楽家には爪の垢を煎じて呑ませたいと常々思っている。

彼の工房で、黒田清輝へのオマージュ作品を観ることができるというので、行ってきた。広尾のはずれにあるマンション地下のワンフロアー。会場には、批評家の東浩紀さんもいらしていた。

 作品そのものも、もちろん面白かったけど、注目したのは、作品がつくられる過程を追体験できるように提供していたことだ。「引き継ぎ書」というファイルが、観れるようになっている。若手美術家が、それを読むことで得る刺激は、ものすごい価値だろうな。

こういう試みを続けていることを、素直に賞賛したい。そして、村上隆に負けないように頑張ろうと思う。




音楽は美術に10年遅れて、その歴史を追うという説があるよね。その真偽はわからないけど、展覧会という「ライブの場」から刺激を受けるのは大事だなと思ってる。