2011年6月20日月曜日

ホリエモンの収監と日本の劣化への不安

 堀江貴文さんが検察に出頭して収監された。二年半の実刑判決が出ているので、このまま2年間(逮捕時に拘留されていた分は差し引かれるんだよね?)は、塀の中で暮らすことになる。
 この事件は、いろいろな事を考えさせられた。
 
 まず、思ったのは、「お上にたてつくと、本当に刑務所に入れられるんだな」ということ。裁判そのものの是非は一旦、置いておくとして、犯罪の性質から言っても、過去の例から言っても、執行猶予がつかないのは「常識外」で、「見せしめ」という言い方がされているけれど、正確に言うと、検察が「舐められたと思って意地になった」というのが実際のところだと思う。以前、おそらくは冤罪と思われる国策捜査で実刑を受けた佐藤優氏によれば、検察は、戦前の陸軍のような、社会正義に燃えてやっているのだそうだ。彼らにとっては、検察の権威を守る事が、日本の国にとって必要な事だと言う思想なのだろう。

 ところが、実際に起きている現象は、日本の国力を下げている。堀江氏は収監された事で、より注目され、人気もあがっている。もし、彼の影響力を下げたいのなら、今回の収監は間違いなく大失敗だ。そして、ホリエモンを支持、ないし同情的な人たちからは、検察と裁判所は「仲間」で、誰にでも「公正」な訳ではないと、確信したと思う。司法に対する信頼と権威は、非常に落ちてしまった。不公平なだけじゃなく、視野が狭すぎて、作戦としても間違っている。

 「悪い事をすると刑務所に入れられる」とみんなが思っているのが、牧歌的かもしれないけれど、平和な社会だよね?「運が悪かったり、検察にたてつくと刑務所に入れられる」とみんなが思うようになると、犯罪に対しても不感症になるのではないかと心配。泥棒をして刑務所に入ったのは「悪い事をした」からではなくても、「運が悪かった」からと、子供たちが思うような社会は僕は嫌だ。でも、今日、ニコニコ生放送の中継を見ていた小中学生がいたら(多分、結構な数がいたよね?)、間違いなくそう思うだろう。僕が司法が愚かだと思うのは、そういう意味だ。

 別の視点で言えば、経済活動をさせれば優秀で、彼なりに愛国心もあるようだから、放っておけば、日本の国に多額の税金を納める人だ。わざわざ刑務所に入れて、税金を使って、飯を食わせる理由が、理解できない。

 ちなみに、僕自身は、決して、「ホリエモン擁護派」ではない。彼の言動は、シャイな偽悪者なのかもしれないが、田舎臭いし、下品な事も多くて、手放しに好きにはなれない。また、天皇制を否定して大統領制を発言するなど(これが徹底的にやられた一つの大きな理由ではないかと思う)既存勢力に戦いを挑むには、稚拙すぎた。
 わかりやすい表現だったから人気も出たのかもしれないが、本気で社会を変えようとするのなら、あんなやり方では無理だ。摩擦が大きすぎる。反対勢力に足をすくわれたのは当然と思う。

 ただ、刑務所に閉じ込めるのは、やり過ぎだ。
 
 ちょっと劇画的な説明になるけど、日本の権力中枢に智慧者がいれば、彼に「はねっかえり」な行動を反省させながら、ばりばり仕事をさせて、日本の国の活力にするように、しむけるだろう。異質なものを上手に使いこなす柔軟な構造な社会を持った国が、国際競争上も強いはずだ。
 今回の日本という国の行為は、お転婆な暴れん坊を持て余して刑務所に入れるという、非常に愚行だったと思う。

 原発事故で露呈した、東電×経産省×学会の「原子力ムラ」も、そうだけど、日本のエスタブリッシュメントは、いつからこんなに愚かで無能になってしまったのだろう。

 僕は、大学も出ずに就職もせずに、音楽なんて仕事もしているし、基本的には「反権威」で仕事していたいと思っている。ただ、権威が曖昧だったり弱かったりすると、そもそも「反権威」が成り立たない。巨人軍が弱い時のアンチ巨人ファンのように心もとない。

 腹黒でムカつくけど、いざとなった時は、巧妙に社会の善と自分の得を摺り合わてくるような、ちゃんと悪い奴が国家の中枢には居てほしいと思う。
 こんな事をしていたら、中国人やユダヤ人はもちろん、アングロサクソンにも勝ち目が無い。日本という国はいつまで成立するのだろう。世界の一流国(って何かの定義は簡単じゃないけど)として、いられるのかどうか、心配だ。
 
 ホリエモン収監時の僕の感想。日本の国を憂いて、暗澹たる気持ちになった。


 でも、こんだけイジメられも、基本スタンスを変えないホリエモンは、驚異的だね。感心する。
 彼が見せつけてくれた事(できれば、見たくなかったけど)を、プラスに変えていくようにしなくちゃいけないんだろうな、とも思っている。

追記:収監から4ヶ月近く経って、まぐまぐ大川社長のツイートで、堀江氏に1億円を超える有料メルマガの原稿料が払われたことが発表された。上記の内容を一点だけ、訂正。ホリエモンは塀の中に居ても、金を稼ぎ、日本に税金を払っている。刑務所の中だと、必要経費が使えなくて、多くの税金を払うことになるかもね^^

2011年6月13日月曜日

原発に関する論議で気色が悪いこと。〜「反原発」「脱原発」の前に〜

 福島原子力発電所の事故をきっかけに、「反原発」や「脱原発」の運動が盛んになっている。一方で、原発を「擁護」する論陣も見られる。多様な意見が発表されるのは良いことだと思うけれど、大切なことが抜けているように感じられて、気持ちが悪い。

 今回の事故で、異論が無いのは、東電の経営陣と一体となった経済産業省とそのOBや御用学者と呼ばれる人達、いわゆる「原子力ムラ」で利権を得ていた人達は許せないということだろう。僕も全面的に賛成だ。この機会に、原子力ムラを根本的に解体することは、社会正義の面でも、日本の国力を上げるためにもマストだ。

 個人的には、一番許せないのは、彼らが「利権をむさぼっていたこと」よりも、「国の危機状況でまともに機能しない、能力も気概も無い人達だった」ことだ。
 おそらくは、最初に「原子力ムラ」の利権構造を作った人達が、死んだり、引退したりして、その枠組みのなかでヌクヌクとしていた人しか居なかったのが理由なのだろう。優秀で無ければ、利権構造をつくることはできない。でも、できあがった構造を守るだけなら、能力の低い人達でもできるのだろう。日本が、そんな保身だけの爺達をのさばらせてしまうような仕組みを修正できずにいた事は、落胆するし、反省もする。
 
 この機会に、「原子力ムラ」の解体を徹底的にしなければならないと思う。


 ただ、そのことと、原子力発電所の是非は、安易に一緒にすべきじゃない。「反原発」の人達の論旨は、「原発は人類の悪」的なものが多くて、気持ちはわかるけれど、辟易する。「自然エネルギー」という言い方にも欺瞞の匂いを感じる。

 一方で、原発「擁護」の人達は、経済学的な視点からの発言は多いけど、「電気料金が二倍になってもいいのか!」って、脅しているみたいで気分悪いよね?経済学者はいろんな計算をするけれど、経済学って変数だらけの学問だし、突き詰めると、多数決で決まっていくことだから、現状を前提に、電力料金の試算をしても、仮説に過ぎないでしょ。だから、経済合理性で原発は無くせないというのも、僕は全面的には信用しない。(データ分析や考え方など経済学から学ぶべき事は多いと思う)

 そして、自然との調和という観点で語るなら、人類はもっと謙虚になるべきじゃないか?「原子力だけが特別に悪くて、風力ならばっちり大丈夫」と思っているとしたら、ちょっと、どうかしている。僕は、エネルギーと言われるもの(端的に言うと電気)を使うのは、「程度問題」だと思う。

 例えば、ヒトは数万年前に「火」を使うことを覚えた。最初は火事を起こしたり、すぐ消えてしまったり、コントロールすることは難しかっただろう。今、僕たちは、「火」は操れると思っているけれど、実際は、今でも火事は沢山あって、人が死んでいるし、オーストラリアや米国の山火事なんて、生態系に影響を与えることもある。でも、その程度のマイナスであれば、プラスの方が大きいと人類は判断しているので、「火を使うのを止めよう」という運動があるという話は世界中で聞いたことが無い。

 文明生活を送っている限り、自然との調和を乱しているという意味では、本質的には同じだ。狩猟生活に戻らない限り、僕らは、自然を壊しながら生きている。

 自然破壊を容認したいのじゃない。もちろん逆だ。僕も「原子力発電所」はどうしますか?という投票があれば、「No」に入れるつもり。ただ、それは「原子力が悪」だからではなく、放射能汚染が、他のあらゆる公害と比べて、質的に酷いと思うからでは無い。「原子力発電は、まだちょっと無理かもね。」という意見だ。

太陽光発電を大規模にやり始めたときに、人の健康を害さないという保証はどこにもない。僕は物理学には明るくないけれど、パネルから大量の電磁波が出て、生態系に影響を与えたり、妊婦や幼児は近づかない方が良いとWHOが発表するみたいなことは、十分にあり得るはずだ。(そして、太陽光発電が新たな利権構造を産むかも知れない。)

僕らは、人類は自然をコントロールできず、文明生活を維持するためには、何らかのデメリットが起きる可能性があるということを知っておくべきだ。その中で、少しでも「ベターと思えること」を愚かな知恵を集結して選んでいくしか無いのだ。「原子力はちょっとダメ過ぎだね。太陽光発電の方が少しマシなんじゃない?」という風に選ばないと、また、間違える。

ちなみに、発電の仕組みにばかり目が行きがちだけど、おそらく送電の仕組みの改善(分散型)や蓄電池の開発に、もっともっと力を注ぐべきだと思う。


それから、原子力に関して、もう一つとても大切なこと。僕たちは、優秀な原子力工学の研究者を必要としていることを忘れちゃいけない。仮に、明日、世界中の原発が止まっても、核廃棄物の処理はしなきゃいけないし、そもそも核爆弾もある。日本の国益のためにも、世界の平和のためにも、唯一の被爆国の責務というなら、日本は優秀な原子力研究者をどんどん輩出すべきではないか?原子力がタブーになって、NGワードにしてはいけない。このままじゃ、日本の大学から原子力工学科が無くなってしまう。


政府の中途半端な情報操作は論外だし、故郷を失った人達や乳幼児への影響を思うと、本当に胸が痛むけれど、情緒論ではなく、日本人ならではの「中庸の知恵」で、この事態に対処したい。

『写楽展』とか『森と芸術』とか『黒田清輝オマージュ』とか。

ヨーロッパやアメリカに出張している時は、早起きして、街の美術館や博物館に行くけれど、不思議なもので、東京だとなかなか時間が取れない。
でも、東京にも良い美術館や展覧会が増えてきていると思うので、仕事の合間でも、やりくりして、少しでも覗いて、刺激を受けたいと思っている。
ということで、最近行った、展覧会のまとめ。自分のためのメモって感じですが。


『写楽・特別展』(東京国立博物館・平成館)

浮世絵が美術的な価値を与えられたきっかけはフランス人だったせいか、写楽の作品も海外の美術館が持っているケースが多いみたい。この展覧会もボストンやらパリやら世界中から集められていた。
ライバル絵師との比較や第一期~第三期の作風の違い、刷り方による色味の違いなど、比較の仕方がわかりやすかった。

今更だけど、写楽の第一期の役者絵のポップ感は、抜群だな!と思った。
日本人と違って周辺情報を持たず、脈絡無く、この絵を見た西洋人が仰天したのは、当然かも知れない。

僕は職業柄、写楽を売り出したプロデューサーの蔦谷重三郞に興味が行く。短期間に消えた絵師、写楽が誰だったかは、江戸期の最大のミステリーの一つ、蔦谷の自演説もある。以前、『写楽殺人事件』というミステリー小説も話題になったよね。あの頃に読みそびれたので、改めて読んでみようと思った。
江戸期の大衆芸能を日本の一つの原点にとらえる論調は、昔から多いけど、日本のポップカルチャーの特徴について考えていると、外せないポイントだなと改めて感じる。


『森と芸術』(東京都庭園美術館)
キュレーターの能力が伝わってくる意欲的な展覧会だった。人間と森との関わりを、森に関する芸術から解き明かすというコンセプト。

狩猟生活から農耕生活に変わった時から人類は森への憧れを持っていたという話から始まり、アダムとイブの林檎や、ケルト人の文化など、関連する絵画が飾られる。森に関心を持った画家が、こんなにいたのかというのは驚かされた。ヨーロッパの小さな村で作られる玩具もあった。

日本人にとっての森という話からジブリアニメに結びつけ、最後に美術館がある白金の森の記録を見せるという流れは、見事なオチだった。まさに古今東西の森からピックアップしながら、強引さを感じなかったのは、キュレーションに教養と確信があるからなんだろう。こんな展覧会をまた観たい。

「森ガール」風の女性客が多かったのも微笑ましかった。7月3日までやってます。


『ラファエル前派からウィリアム・モリスへ』(目黒区美術館)

庭園美術館と同じ目黒駅が最寄りと言う事で、ちょっと寄り道してみた。

産業革命期のイギリスで中世への回帰があったというのは知らなかった。労働の疎外からコミュニティに憧れるということらしい。当時のイギリスで権威だった、ルネッサンスの有名画家ラファエルより前の価値観を取り戻そうという芸術運動だったそうだ。クラフト的な商品をたくさん産み出したウィリアム・モリス商会も、そのラファエル前派の影響を受けていたというのは意外だった。
まったく不案内で知らない世界だったけど、歴史って面白いな。

こちらも7月12日まで。



『黒田清輝へのオマージュ、智・感・情』(KAIKAI KIKI GALERRY)
村上隆さんは、尊敬する日本人アーティストの一人だ。『芸術起業論』も読んだけど、創作活動に身を投じながら、同時に日本の画壇を痛烈批判して、海外に活路を見いだし、日本人の優位性を最大限活かして、経済的にも成功しているのは素晴らしい。恵まれた音楽業界でチャンスを与えられながら、責任転嫁ばかりしている日本の若手音楽家には爪の垢を煎じて呑ませたいと常々思っている。

彼の工房で、黒田清輝へのオマージュ作品を観ることができるというので、行ってきた。広尾のはずれにあるマンション地下のワンフロアー。会場には、批評家の東浩紀さんもいらしていた。

 作品そのものも、もちろん面白かったけど、注目したのは、作品がつくられる過程を追体験できるように提供していたことだ。「引き継ぎ書」というファイルが、観れるようになっている。若手美術家が、それを読むことで得る刺激は、ものすごい価値だろうな。

こういう試みを続けていることを、素直に賞賛したい。そして、村上隆に負けないように頑張ろうと思う。




音楽は美術に10年遅れて、その歴史を追うという説があるよね。その真偽はわからないけど、展覧会という「ライブの場」から刺激を受けるのは大事だなと思ってる。