2011年6月20日月曜日

ホリエモンの収監と日本の劣化への不安

 堀江貴文さんが検察に出頭して収監された。二年半の実刑判決が出ているので、このまま2年間(逮捕時に拘留されていた分は差し引かれるんだよね?)は、塀の中で暮らすことになる。
 この事件は、いろいろな事を考えさせられた。
 
 まず、思ったのは、「お上にたてつくと、本当に刑務所に入れられるんだな」ということ。裁判そのものの是非は一旦、置いておくとして、犯罪の性質から言っても、過去の例から言っても、執行猶予がつかないのは「常識外」で、「見せしめ」という言い方がされているけれど、正確に言うと、検察が「舐められたと思って意地になった」というのが実際のところだと思う。以前、おそらくは冤罪と思われる国策捜査で実刑を受けた佐藤優氏によれば、検察は、戦前の陸軍のような、社会正義に燃えてやっているのだそうだ。彼らにとっては、検察の権威を守る事が、日本の国にとって必要な事だと言う思想なのだろう。

 ところが、実際に起きている現象は、日本の国力を下げている。堀江氏は収監された事で、より注目され、人気もあがっている。もし、彼の影響力を下げたいのなら、今回の収監は間違いなく大失敗だ。そして、ホリエモンを支持、ないし同情的な人たちからは、検察と裁判所は「仲間」で、誰にでも「公正」な訳ではないと、確信したと思う。司法に対する信頼と権威は、非常に落ちてしまった。不公平なだけじゃなく、視野が狭すぎて、作戦としても間違っている。

 「悪い事をすると刑務所に入れられる」とみんなが思っているのが、牧歌的かもしれないけれど、平和な社会だよね?「運が悪かったり、検察にたてつくと刑務所に入れられる」とみんなが思うようになると、犯罪に対しても不感症になるのではないかと心配。泥棒をして刑務所に入ったのは「悪い事をした」からではなくても、「運が悪かった」からと、子供たちが思うような社会は僕は嫌だ。でも、今日、ニコニコ生放送の中継を見ていた小中学生がいたら(多分、結構な数がいたよね?)、間違いなくそう思うだろう。僕が司法が愚かだと思うのは、そういう意味だ。

 別の視点で言えば、経済活動をさせれば優秀で、彼なりに愛国心もあるようだから、放っておけば、日本の国に多額の税金を納める人だ。わざわざ刑務所に入れて、税金を使って、飯を食わせる理由が、理解できない。

 ちなみに、僕自身は、決して、「ホリエモン擁護派」ではない。彼の言動は、シャイな偽悪者なのかもしれないが、田舎臭いし、下品な事も多くて、手放しに好きにはなれない。また、天皇制を否定して大統領制を発言するなど(これが徹底的にやられた一つの大きな理由ではないかと思う)既存勢力に戦いを挑むには、稚拙すぎた。
 わかりやすい表現だったから人気も出たのかもしれないが、本気で社会を変えようとするのなら、あんなやり方では無理だ。摩擦が大きすぎる。反対勢力に足をすくわれたのは当然と思う。

 ただ、刑務所に閉じ込めるのは、やり過ぎだ。
 
 ちょっと劇画的な説明になるけど、日本の権力中枢に智慧者がいれば、彼に「はねっかえり」な行動を反省させながら、ばりばり仕事をさせて、日本の国の活力にするように、しむけるだろう。異質なものを上手に使いこなす柔軟な構造な社会を持った国が、国際競争上も強いはずだ。
 今回の日本という国の行為は、お転婆な暴れん坊を持て余して刑務所に入れるという、非常に愚行だったと思う。

 原発事故で露呈した、東電×経産省×学会の「原子力ムラ」も、そうだけど、日本のエスタブリッシュメントは、いつからこんなに愚かで無能になってしまったのだろう。

 僕は、大学も出ずに就職もせずに、音楽なんて仕事もしているし、基本的には「反権威」で仕事していたいと思っている。ただ、権威が曖昧だったり弱かったりすると、そもそも「反権威」が成り立たない。巨人軍が弱い時のアンチ巨人ファンのように心もとない。

 腹黒でムカつくけど、いざとなった時は、巧妙に社会の善と自分の得を摺り合わてくるような、ちゃんと悪い奴が国家の中枢には居てほしいと思う。
 こんな事をしていたら、中国人やユダヤ人はもちろん、アングロサクソンにも勝ち目が無い。日本という国はいつまで成立するのだろう。世界の一流国(って何かの定義は簡単じゃないけど)として、いられるのかどうか、心配だ。
 
 ホリエモン収監時の僕の感想。日本の国を憂いて、暗澹たる気持ちになった。


 でも、こんだけイジメられも、基本スタンスを変えないホリエモンは、驚異的だね。感心する。
 彼が見せつけてくれた事(できれば、見たくなかったけど)を、プラスに変えていくようにしなくちゃいけないんだろうな、とも思っている。

追記:収監から4ヶ月近く経って、まぐまぐ大川社長のツイートで、堀江氏に1億円を超える有料メルマガの原稿料が払われたことが発表された。上記の内容を一点だけ、訂正。ホリエモンは塀の中に居ても、金を稼ぎ、日本に税金を払っている。刑務所の中だと、必要経費が使えなくて、多くの税金を払うことになるかもね^^

2011年6月13日月曜日

原発に関する論議で気色が悪いこと。〜「反原発」「脱原発」の前に〜

 福島原子力発電所の事故をきっかけに、「反原発」や「脱原発」の運動が盛んになっている。一方で、原発を「擁護」する論陣も見られる。多様な意見が発表されるのは良いことだと思うけれど、大切なことが抜けているように感じられて、気持ちが悪い。

 今回の事故で、異論が無いのは、東電の経営陣と一体となった経済産業省とそのOBや御用学者と呼ばれる人達、いわゆる「原子力ムラ」で利権を得ていた人達は許せないということだろう。僕も全面的に賛成だ。この機会に、原子力ムラを根本的に解体することは、社会正義の面でも、日本の国力を上げるためにもマストだ。

 個人的には、一番許せないのは、彼らが「利権をむさぼっていたこと」よりも、「国の危機状況でまともに機能しない、能力も気概も無い人達だった」ことだ。
 おそらくは、最初に「原子力ムラ」の利権構造を作った人達が、死んだり、引退したりして、その枠組みのなかでヌクヌクとしていた人しか居なかったのが理由なのだろう。優秀で無ければ、利権構造をつくることはできない。でも、できあがった構造を守るだけなら、能力の低い人達でもできるのだろう。日本が、そんな保身だけの爺達をのさばらせてしまうような仕組みを修正できずにいた事は、落胆するし、反省もする。
 
 この機会に、「原子力ムラ」の解体を徹底的にしなければならないと思う。


 ただ、そのことと、原子力発電所の是非は、安易に一緒にすべきじゃない。「反原発」の人達の論旨は、「原発は人類の悪」的なものが多くて、気持ちはわかるけれど、辟易する。「自然エネルギー」という言い方にも欺瞞の匂いを感じる。

 一方で、原発「擁護」の人達は、経済学的な視点からの発言は多いけど、「電気料金が二倍になってもいいのか!」って、脅しているみたいで気分悪いよね?経済学者はいろんな計算をするけれど、経済学って変数だらけの学問だし、突き詰めると、多数決で決まっていくことだから、現状を前提に、電力料金の試算をしても、仮説に過ぎないでしょ。だから、経済合理性で原発は無くせないというのも、僕は全面的には信用しない。(データ分析や考え方など経済学から学ぶべき事は多いと思う)

 そして、自然との調和という観点で語るなら、人類はもっと謙虚になるべきじゃないか?「原子力だけが特別に悪くて、風力ならばっちり大丈夫」と思っているとしたら、ちょっと、どうかしている。僕は、エネルギーと言われるもの(端的に言うと電気)を使うのは、「程度問題」だと思う。

 例えば、ヒトは数万年前に「火」を使うことを覚えた。最初は火事を起こしたり、すぐ消えてしまったり、コントロールすることは難しかっただろう。今、僕たちは、「火」は操れると思っているけれど、実際は、今でも火事は沢山あって、人が死んでいるし、オーストラリアや米国の山火事なんて、生態系に影響を与えることもある。でも、その程度のマイナスであれば、プラスの方が大きいと人類は判断しているので、「火を使うのを止めよう」という運動があるという話は世界中で聞いたことが無い。

 文明生活を送っている限り、自然との調和を乱しているという意味では、本質的には同じだ。狩猟生活に戻らない限り、僕らは、自然を壊しながら生きている。

 自然破壊を容認したいのじゃない。もちろん逆だ。僕も「原子力発電所」はどうしますか?という投票があれば、「No」に入れるつもり。ただ、それは「原子力が悪」だからではなく、放射能汚染が、他のあらゆる公害と比べて、質的に酷いと思うからでは無い。「原子力発電は、まだちょっと無理かもね。」という意見だ。

太陽光発電を大規模にやり始めたときに、人の健康を害さないという保証はどこにもない。僕は物理学には明るくないけれど、パネルから大量の電磁波が出て、生態系に影響を与えたり、妊婦や幼児は近づかない方が良いとWHOが発表するみたいなことは、十分にあり得るはずだ。(そして、太陽光発電が新たな利権構造を産むかも知れない。)

僕らは、人類は自然をコントロールできず、文明生活を維持するためには、何らかのデメリットが起きる可能性があるということを知っておくべきだ。その中で、少しでも「ベターと思えること」を愚かな知恵を集結して選んでいくしか無いのだ。「原子力はちょっとダメ過ぎだね。太陽光発電の方が少しマシなんじゃない?」という風に選ばないと、また、間違える。

ちなみに、発電の仕組みにばかり目が行きがちだけど、おそらく送電の仕組みの改善(分散型)や蓄電池の開発に、もっともっと力を注ぐべきだと思う。


それから、原子力に関して、もう一つとても大切なこと。僕たちは、優秀な原子力工学の研究者を必要としていることを忘れちゃいけない。仮に、明日、世界中の原発が止まっても、核廃棄物の処理はしなきゃいけないし、そもそも核爆弾もある。日本の国益のためにも、世界の平和のためにも、唯一の被爆国の責務というなら、日本は優秀な原子力研究者をどんどん輩出すべきではないか?原子力がタブーになって、NGワードにしてはいけない。このままじゃ、日本の大学から原子力工学科が無くなってしまう。


政府の中途半端な情報操作は論外だし、故郷を失った人達や乳幼児への影響を思うと、本当に胸が痛むけれど、情緒論ではなく、日本人ならではの「中庸の知恵」で、この事態に対処したい。

『写楽展』とか『森と芸術』とか『黒田清輝オマージュ』とか。

ヨーロッパやアメリカに出張している時は、早起きして、街の美術館や博物館に行くけれど、不思議なもので、東京だとなかなか時間が取れない。
でも、東京にも良い美術館や展覧会が増えてきていると思うので、仕事の合間でも、やりくりして、少しでも覗いて、刺激を受けたいと思っている。
ということで、最近行った、展覧会のまとめ。自分のためのメモって感じですが。


『写楽・特別展』(東京国立博物館・平成館)

浮世絵が美術的な価値を与えられたきっかけはフランス人だったせいか、写楽の作品も海外の美術館が持っているケースが多いみたい。この展覧会もボストンやらパリやら世界中から集められていた。
ライバル絵師との比較や第一期~第三期の作風の違い、刷り方による色味の違いなど、比較の仕方がわかりやすかった。

今更だけど、写楽の第一期の役者絵のポップ感は、抜群だな!と思った。
日本人と違って周辺情報を持たず、脈絡無く、この絵を見た西洋人が仰天したのは、当然かも知れない。

僕は職業柄、写楽を売り出したプロデューサーの蔦谷重三郞に興味が行く。短期間に消えた絵師、写楽が誰だったかは、江戸期の最大のミステリーの一つ、蔦谷の自演説もある。以前、『写楽殺人事件』というミステリー小説も話題になったよね。あの頃に読みそびれたので、改めて読んでみようと思った。
江戸期の大衆芸能を日本の一つの原点にとらえる論調は、昔から多いけど、日本のポップカルチャーの特徴について考えていると、外せないポイントだなと改めて感じる。


『森と芸術』(東京都庭園美術館)
キュレーターの能力が伝わってくる意欲的な展覧会だった。人間と森との関わりを、森に関する芸術から解き明かすというコンセプト。

狩猟生活から農耕生活に変わった時から人類は森への憧れを持っていたという話から始まり、アダムとイブの林檎や、ケルト人の文化など、関連する絵画が飾られる。森に関心を持った画家が、こんなにいたのかというのは驚かされた。ヨーロッパの小さな村で作られる玩具もあった。

日本人にとっての森という話からジブリアニメに結びつけ、最後に美術館がある白金の森の記録を見せるという流れは、見事なオチだった。まさに古今東西の森からピックアップしながら、強引さを感じなかったのは、キュレーションに教養と確信があるからなんだろう。こんな展覧会をまた観たい。

「森ガール」風の女性客が多かったのも微笑ましかった。7月3日までやってます。


『ラファエル前派からウィリアム・モリスへ』(目黒区美術館)

庭園美術館と同じ目黒駅が最寄りと言う事で、ちょっと寄り道してみた。

産業革命期のイギリスで中世への回帰があったというのは知らなかった。労働の疎外からコミュニティに憧れるということらしい。当時のイギリスで権威だった、ルネッサンスの有名画家ラファエルより前の価値観を取り戻そうという芸術運動だったそうだ。クラフト的な商品をたくさん産み出したウィリアム・モリス商会も、そのラファエル前派の影響を受けていたというのは意外だった。
まったく不案内で知らない世界だったけど、歴史って面白いな。

こちらも7月12日まで。



『黒田清輝へのオマージュ、智・感・情』(KAIKAI KIKI GALERRY)
村上隆さんは、尊敬する日本人アーティストの一人だ。『芸術起業論』も読んだけど、創作活動に身を投じながら、同時に日本の画壇を痛烈批判して、海外に活路を見いだし、日本人の優位性を最大限活かして、経済的にも成功しているのは素晴らしい。恵まれた音楽業界でチャンスを与えられながら、責任転嫁ばかりしている日本の若手音楽家には爪の垢を煎じて呑ませたいと常々思っている。

彼の工房で、黒田清輝へのオマージュ作品を観ることができるというので、行ってきた。広尾のはずれにあるマンション地下のワンフロアー。会場には、批評家の東浩紀さんもいらしていた。

 作品そのものも、もちろん面白かったけど、注目したのは、作品がつくられる過程を追体験できるように提供していたことだ。「引き継ぎ書」というファイルが、観れるようになっている。若手美術家が、それを読むことで得る刺激は、ものすごい価値だろうな。

こういう試みを続けていることを、素直に賞賛したい。そして、村上隆に負けないように頑張ろうと思う。




音楽は美術に10年遅れて、その歴史を追うという説があるよね。その真偽はわからないけど、展覧会という「ライブの場」から刺激を受けるのは大事だなと思ってる。

2011年5月30日月曜日

極私的世界史観~僕が歴史を学ぶ理由~

 いくつになっても好奇心と向上心を持って、勉強することは大事だと思う。何でも興味が湧いたことをやればいいのだけれど、大人になって、誰にとっても勉強する「べき」ことって、歴史を学ぶことと外国語を習得することの2つ位しか無いんじゃない?って、最近は思うようになった。


 杉山正明著『クビライの挑戦~モンゴルによる世界史の大転回~』(講談社学術文庫)を読んだ。
とても面白い。1995年にサントリー学芸賞を受賞した本だとか。全然知らなかった。不明を恥じた。
 
 モンゴルには、2004年に馬頭琴とホーミーのレコーディングをするために、ウランバートルに滞在したことがある。(その時のことは、以前、こちらに書きました。)
モンゴル人は愛想は無いけれど、親日的だ。そして、決して豊かな国では無かったけれど、
「俺たち世界一になったことあるゼ」的なプライドを感じて、ますます好きになった。
その頃の僕には「騎馬民族で戦争が強かったんだよね」位の認識しか無かったけれど、、。

モンゴル民族を中心とした「モンゴル帝国」の成立は世界史的に非常に大きな転回点になったというのがこの本の主旨だ。
 ユーラシア大陸全体が、一つの通商圏になったこと、おそらく人類史で初めて、人が「世界」を意識したのではないかという問いかけは、非常に興味深い。
 面白かったのは、モンゴル帝国は、民族、宗教などに関係なく人材登用をしたこと、基本的なルールを守れば、属国の「自治」は尊重したこと。人や物の往来をできるだけ自由にして通商を盛んにしようとしたこと、などで、いずれも現代にも通じる価値観だ。
 
 寛容な支配というのは、ローマ帝国にも通じるなと思った。


 高校時代に受験対策以外の世界史をさぼったせいで、世界史の把握が浅かった。グローバルに仕事をしようと思うと、各国の文化や歴史を最低限を知る必要がある。そんな時に、世界史全体の流れを自分なりに持っていないと、ただの「豆知識」になってしまう。
 「教養」というには恥ずかしい「鼻クソ」みたいなものだけれど、自分なりのとらえ方は持っておきたいと思って、10年位前から、歴史に関する本を読むようになった。
 西洋史の勉強が必要だなと思って、いろいろ探しているウチに、見つけたのが塩野七生の『ローマ人の物語』(新潮文庫)だった。


 正確に言うと、『痛快ローマ学』(集英社インターナショナル)という図解付きダイジェスト本(ローマ史が初めての方にはオススメです)を見つけたのがきっかけで、『ローマ人の物語』をシリーズで読み始めた。
 このシリーズは、分厚い単行本で全15巻(文庫では全40巻)もある。最初は、文庫で読んでいたけれど、そのうち文庫化されている分は追いついてしまい、単行本を読み始め、遂には毎年1冊ずつでるのを待つようになった。
 2006年にシリーズが終了したが、それこそ人類史に残る力作だ。塩野七生の『ローマ人の物語』は、ローマの歴史を描いた傑作として、世界中で読み続けられると思う。
 塩野さんはルネッサンス期に関する作品もあり(ヴェネツイアを描いた『海の都の物語』も超お薦めです!)僕はお陰で、西洋史に対して、自分なりの見解を持つことができるようになった。
 司馬遼太郎さんの愛読者は「司馬史観」を持つというけれど(司馬遼太郎もファンです)、僕は、西洋史に関して、「塩野史観」の影響を強く受けている。


 自分なりに咀嚼して、思いっきり乱暴に言うと、
「僕の好きなヨーロッパはローマ(とギリシャ)がルーツの価値観で、良くないと思うところは、キリスト教(教会)の影響下の事象なんだな」
ということ。
自分の中にあった、「欧米的な価値観で好きなところと、悪いと思うところ」が、随分、綺麗に色分けできた。
それは、もっとざっくり言うと、「多様性を認める」ということ。
(キリスト教教会も改革の歴史があるので、キリスト教がダメという意味では無いけどね。)
 ローマ帝国も民族、宗教に対しては、寛容であるのが基本的なスタンス。


 そして、今の時代が「パックスアメリカーナ=アメリカによって世界秩序が形作られている時代」だとしたら、ローマ帝国やモンゴル帝国が主役だった時代に比べて、優れているところは、ほとんど無い気がする。
 武器が槍や鉄砲から、コンピューター制御のミサイルになったことって、進歩って言うのかな?
 戦争を始める理由や阻止する方法論、終らせる時の論理が優れている事の方が人類の智恵だと僕は思うのだけれど、その観点で言うと、人類は2000年掛けて、全く進歩していない、というか、ローマ帝国市民の方がアメリカ合衆国国民(もちろん同盟国の日本人も同罪だけど)よりも、ずっと智恵を持っていたのは間違いない。


 僕はいわゆる「反原発」論者でじゃないけれど、原発問題についても、人類の智恵と進歩
みたいな観点で、もっと謙虚に、かつ長期的な視野で捉えるべきだと思う。
 歴史上に沢山登場する「滅びていった国」に、長い歴史を持つ日本がならないために、今回の原発事故が没落の始まりにならないために、どうすれば良いのか考えたい。

 ちょっと話が大きくなったけど、歴史を学ぶって、そういう事だと、僕は思っている。

2011年5月27日金曜日

ジャーナリストになりたかった、ことはない。

 去年、iPadを買って、日経新聞の購読をやめた。朝起きて、新聞受に朝刊を取りにいき、トイレやソファで新聞を読むという行動は一生続く習慣だと思ってたので、ちょっとびっくりした。新聞のコンテンツとしての質が下がっているような気がしていたのと、ツイッターとグーグルリーダーで、ネット上から情報を得れば十分だと思ったのが理由だけど、試してみたら、何の不自由も感じなかった。1年間の新聞購読料でiPadを買ったことになるね。

 教養と良識の象徴が新聞だった事は覚えている。中学生の頃は、教師に勧められて、深代淳郎著の「天声人語」を読んだ。あの頃は、朝日新聞からたくさんのことを教わっていた気がする。

 日経新聞に続いて、朝日新聞がデジタル版を始めたけど、値段は高いし、紙をデジタルで「も」見えるようにしただけで、全く魅力を感じない。新聞社という存在が、時代から取り残されてしまった感じが、自分が深く仕事をしてきたレコード会社と相似形で、似た寂しさを感じる。


 さて、今日の本題。
『俺たち訴えられました!』(烏賀陽弘道、西岡研介著/河出書房新社)を読んだ。二人とも新聞記者からフリーランスになったジャーナリストで、都合の悪い記事を書いたことで、大きな組織から裁判を仕掛けられた。その経験を対談形式で、まとめている。

SLAPP裁判」という言葉を、この本で初めて目にしたけど、アメリカでは、大企業などが言論抑圧を目的に裁判を起こすことと定義されて、はっきりと禁止されているそうだ。

特に烏賀陽氏を訴えたオリコンは、無茶苦茶な無理筋で、雑誌「サイゾー」のコメント(編集部の確認ミス)に対して裁判を起こすという、道義的にも問題があると思う行動だ。訴えられた方に、非があってもなくても、社会的、経済的、イメージ(評判)的なダメージを受ける。実際、僕も知人が「烏賀陽さんもオリコンと喧嘩して損しましたよね。」みたいな噂を聞いて、喧嘩好きな人なのかなと勝手に思っていた。(実際、喧嘩好きかもしれないけど^^、オリコン裁判の件に限っては一方的に被害者のようだ。)

 西岡氏は、過激派(革マル派)の幹部がJR東日本の労働組合で特権階級になっているということを問題提起していたので、もっと本格的な闘争だ。日本中の組合関係者から50件以上の訴訟を起こされているって、ちょっと想像を超えた嫌がらせだ。


 烏賀陽弘道さんは、著作Jポップとは何か』(岩波新書)を読んで、感心させられた。音楽業界関係者は全員読むべき名著だと思う。徹底的な取材と独自の分析が素晴らしい。彼の結論には必ずしも賛成じゃ無いけど、ここまできちんとした仕事をされると無条件に敬服する。
 インターネットが本格的に普及する前で話が終っているので、是非、続編を書いて欲しい。機会があれば、取材等は全面的に協力したいと思っている。

 こんな風に思うのは、佐々木俊尚著の『電子書籍の衝撃』を読んだからだ。昨今、注目されている佐々木俊尚さんの著作でロングセラーだけど、音楽ビジネスの引用部分は、ほとんど間違っている。
 読んだときは、業界外の人には、音楽業界の仕組みや習慣を理解するのは難しいんだな。僕ら業界人が説明不足なのもよくないよな。とか思っていたけれど、『Jポップとは何か』を読んで、単に取材量の違いだという事がわかった。佐々木さんは一部の関係者の伝聞を基に、自論の繋がるように書いたのだろう。テーマは出版業界だから本の主旨が変わらないのはわかるし、その主旨自体には賛成なんだけど、音楽業界の間違った引用が、他の人に孫引きされて誤解が広がるのが心配だ。

 それにしても烏賀陽さんや西岡さんは、なんでこんなに頑張れるんだろう?僕も零細企業の社長を長くやっているので、「何があっても動じない事務所のオヤジとしての矜持」みたいなのは持っているつもりだけど、彼らの状況は度を超している。
 もちろん、ジャーナリストとしてのプロ意識を尊敬するけれど、それ以上に、不思議な生き物に興味を持っている感覚に近い関心を覚える。本人達も、理由がよくわからないのではないかと推測する。その意識をどんな風に言語化しているのかは興味津々だ。
  
 彼らのジャーナリスト魂が、社会のために必要だとか、日本の役に立っているとかは確信が持てない。国民に必要にされてる感じは、正直あんまり無いし。っていうか、好きでやってるんだよね、って思ったのが本音。こんなに損なことをやらざるを得ない、彼らのメンタリティと根性と実際の行動については、手放しの賞賛と強い興味を表明したい。 「おまえら、ずげーよ!」って。

 そういえば、俺はジャーナリストになりたいと思ったことは無かったな。この本を読んでわかったけど、絶対になれないし、なりたくない。
  もしかしたら、これも彼らに対する褒め言葉かもしれない、って思ったり。

ということで、『俺たち訴えられました!』読んでみてください。

2011年5月15日日曜日

文化人類学者になりたかった 〜東京エスムジカと国立民族学博物館〜

文化人類学の存在を知ったのは中学生だった。マセガキだった僕は、中公新書の『文化人類学入門』(祖父江孝夫著)を書店で見つけ、将来は文化人類学者になりたいと思った。今から思えば、70年代後半は、ちょうど文化人類学の勃興期だったのかもしれない。学者への願望は、高校に入ってバンドをやり始めて、あっさり崩れたけれど。性格的にも研究者は向いてなかったし。

 それでも、高校生の頃は小泉文夫という民族音楽学者がアイドルだったので、音楽プロデューサーとして、新人アーティストのプランニングを始めた時に、コンセプトの一つとして、「民族音楽の要素を取り込んだ東京発Jポップ」を掲げたのは、音楽業界の中では、「突飛な発想」と言われたけど、自分にとっては当然の帰結だった。そのアイデアは「東京エスムジカ」というアーティストで一つの形となった。ビクターエンタテインメントからアルバムを3枚リリースしているので、興味のある方は聴いてみてください


「東京エスムジカ」のコンセプトを組み上げる事ができたのは、欧米の西洋人からの視点に毒されずに、世界を相対化して見る感覚を、中学時代に文化人類学から教わったからだと思っている。

蛇足だけど、僕が、道を踏み外して、音楽にのめり込んだのは、ワールドミュージックではなく、高校時代にジャニス・ジョップリンリッキ・リー・ジョーンズプロフェッサー・ロングヘアマイルス・デイビスなどのアーティストからの洗礼が原因。
理屈っぽく言うと、「アフリカから奴隷として連れられた黒人が、アメリカで西洋音楽と融合してつくった音楽が、アメリカ資本主義と結びついて世界を席巻した時代に。極東に産まれた私も人生を間違えました」。なので、ニューオリンズが、俺の聖地。

 さて、昨日のこと。大阪の万博記念公園に音制連の理事として、東日本大震災チャリティーコンサートをお手伝いに行った。
(晴天にも恵まれ盛況のうちに成功しました。ご来場の皆さま、ありがとうございました。ご尽力頂いた関西の音楽業界関係者のみなさま、お疲れ様でした。)

 ちょっと隙をみつけて、国立民族学博物館(通称:みんぱく)に行ってみた。万博公園は、FM802のイベントなどで、何度も行っているのに、なかなか機会がとれずにいた。
 
「みんぱく」は最高。展示物の充実度、解説のわかりやすさ、超一級。全体にポップさも感じる。世界中の言語を語順別に分けて、タッチパネルを使ったインタラクティブな展示など、子供から大人まで楽しみながら学べる設備が整っている。
 古今東西の人類に関する全ての文化をフラットな視点で捉えるという、文化人類学の基本姿勢が、きちんと貫かれている。日本の博物館には珍しく撮影OKというのも、気持ちいい。


 この姿勢は、おそらく初代館長梅棹忠夫さんの功績。昨年80歳で亡くなった梅棹さんの活動に関する特別展「ウメサオタダオ展」も観た。
 戦前からの梅棹氏の探検の記録、膨大なフィールドワークノート、スケッチなどが年代別に展示され、業績の大きさで圧倒される。京都人らしいユーモアと反骨精神のある人柄も伝わってきた。


それにしても、長生きするのは大事だね。もちろん濃い人生でなければ意味がないけど、一人の人間が一生にできることなど限りがあるからこそ、しっかり長生きしないと、できる事がもっと少なくなる。太宰治を読み耽った中学生の頃は、惜しまれて夭折する事に憧れてたけど、40代半まで生きながらえてしまった今となっては、健康に長生きして、頑固な爺さんになってやるんだ^^

 タイ人やインドネシア人シンガーをプロデュースしたり、グローバルな視野が求められる僕には、仕事上でも刺激になる。また行こう。


大阪万博記念公園内の国立民族学博物館「みんぱく」は、オススメです。

2011年5月10日火曜日

「シュルレアリスム展」と「岡本太郎展」と「ヘンリー・ダーガー展」

 最近行った展覧会の感想メモです。
 
 ダダイズムからシュルレアリスムにかけての概念と作品は、高校生の頃に知り、すごく惹かれました。従来の価値観を壊して、自由を希求するという姿勢が魅力的でしたね。権威を盲信しないこと、全ての事象は、相対化して捉えるべきだということを10代の時に知ることができたのは、ダリやマグリットといったアーティストのお陰だったと思ってます。
 同時に、壊していくことに限界があること、自由を突き詰めること自体には限界もあるし、壊すだけだと意味が無いことを、感覚的につかむことができました。やはり、当時好きだった「フリージャズ」という音楽も、何でも自由にやっていい、ということを突き詰めていくと、結局は「フリージャズ」的な、新しい様式を産んでいました。その様式が美しいから、観客は支持して、成立しているという構図が面白かったです。

 パリのポンピドゥ美術館から出品された作品は、シュルレアリスムの思想の形成が良く理解できる内容でした。シュルレアリスムが、パリから出てきたのは必然なんですね。とてもパリらしい精神を感じます。ポップアートが、ある時期のニューヨークを象徴しているように。
 美術史と音楽史は連動してるので、今更ながら、西洋音楽史と美術史を学びたいなと思いました。良さそうな本を探してみます。



同じ日に、岡本太郎展にも行きました。生誕100年ということで、再評価されているようですね。近代美術館で行われたこの展覧会も素晴らしかったです。岡本太郎さんに直接、お会いしたことはありませんが、おそらく、ものすごく魅力のある方だったことでしょう。作品はもちろん大切ですが、結局は人間力の勝負になってくるというのは、長年、アーティストマネージメントの仕事をしていると、しみじみ感じます。

 展覧会のキュレーション(これが元々のキュレーションという言葉の使い方ですね。)も非常に丁寧でわかりやすかったです。休日に行って、時間もあまりなかったので、ゆっくり観られなかったのが残念。
 シュルレアリスムがヨーロッパを席巻している時代にパリに行った岡本太郎は、ピカソに衝撃を受け、ピカソを超えるという気持ちで、創作活動を生涯続けたとのことですが、日本の現代美術を代表する素晴らしいアーティストだと言う事を改めて確認できました。



 絵は見たことがありましたけど、不覚にも、ヘンリー・ダーガーをきちんと認識してませんでした。
 1892年生まれの作者は1973年に亡くなるまで、誰にも知られずに、小説と絵画を描き続け、死後に発見されたというエピソードは、小林恭二さんの『小説伝』を思い出しますが、これも私が不勉強だっただけで、小林さんは当然、ご存知で書かれたのでしょうね。以前は親しくさせていただいて、小林作品の舞台プロデュースまでしていたのに、恥ずかしいです。
 
 『非現実の王国』は、世界最長の小説だそうです。美しい少女達が主人公のファンタジーで、悪の惑星を少女戦士達が倒すというプロットは、昨今のアニメを彷彿とさせます。絵画は、全て雑誌からのトレース(複写)とコラージュで作られていて、絵巻のような大きさでした。コンピューターを使わずに全て手作業でやっていたというのも驚きですし、その幻想的な世界は、ヘンリー独特のものです。
 但し、「アメリカン・イノセンス」というキャッチコピー(アメリカの純真?)は、いいとして、彼を昨今、注目されている「アウトサイダー・アート」の先駆者的に位置づけている論評があるのは、首をかしげました。知的障害者による作品は、わかりやすくいうと「山下清・裸の大将」に代表される作品ですよね?ヘンリー・ダーガーは、養護施設に入っていたという経歴はあるものの、小説を読んでもわかるように、いわゆる「知的障害」ではありません。幻想の世界を独自に深く、大きく築くのは、もちろん「狂気」のなせる技ですが、その狂気は多くの「健常者の」アーティストが持っているものと同質だと思います。この話を突き詰めると、正常と狂気は、白と黒の様に分けられることではなく、灰色の濃さの問題で、精神に於ける異常性というのは、グラデーションだという話になるのですが。

 彼の世界最長の小説を読破するのには、膨大な時間が必要でしょうから、なかなかお薦めできないですが、コラージュを駆使した絵画は、現代美術の一つの完成形として観るに値すると思います。今週日曜日(5/15)までやっているので、お時間のある方は、是非。
 余談ですが、原宿という土地柄かもしれませんが「HENRY DARGER展」は、綺麗な女性の観客が多かった気がします。美しい女性は純真な狂気に惹かれるのでしょうか、、?