2011年8月14日日曜日

文章を書くということ。〜「言葉の力」と「文章読本」〜

 猪瀬直樹著『言葉の力』(中公新書ラクレ)は、良い本だった。現役の東京都副知事が執筆活動を両立させていることが凄いと思うし、作家としての知見、能力を都政に活かしているのが素晴らしい。教育で効果を出すのには時間が掛かるものかと思ったら、フィンランドはしっかり成果出しているそうだ。東京都の改革にも期待したい。「言語技術」を高めることの重要性や、官僚に騙されない方法、古典の紹介など、幅広く「言葉の力」について書かれている名著なのでオススメ。
 猪瀬さんは、小泉内閣の道路公団改革での活躍ぶりも陰ながら応援していた。政治家としても卓越していると思う。今年の都知事選で、暴言失言が目に余る石原さんを止めて、猪瀬さん自身が出馬してくれなかったのか?それだけは不満だな。

 僕は今年の4月に初めて本を出版させてもらった。音楽プロデューサーやアーティストマネージメントという仕事は、いわば裏方で、目立つものではないと思っていたし、先輩達からもそう教わってきた。去年の1月にツイッターを始めるまで、ネット上で自分の意見を発表したことは一度も無い。ただ、今の時代は、黙っていることが、あまりに損で、やらざるを得ないと思ったんだ。

 本を書くことになったのもその延長線上にある。音楽プロデューサーって、ある意味、究極のB to Cビジネスだ。アーティストとファンを結びつける仕事。特に、新人を売り出すときは、どうやってファンをつくるかに腐心する。ユーザー動向には敏感にならざるを得ない。ソーシャルメディアの活用は、職業的な必然だった。現状を把握して、新サービスをチェックして、アイデアを考えて、とやっている内に、自分なりのソーシャルメディア観を持てるようになった。ところが、世の中の「ソーシャル本」は、マーケティング研究家とIT好きの人たちが書いているので、専門的すぎたり、偏愛していたりしているものが多い。ツールとして、その本質を理解することが必要だと思ったのが、出版の動機だ。
(ちなみに、『ソーシャルネットワーク革命がみるみるわかる本』というのは編集者がつけてくれたタイトルです。ちょっと恥ずかしいけれど、気に入っています。)

 それまで、自分が本を出すなんて、考えたこともなかった。書籍のプロデュースはしているし、アーティストプロデュースのプランの中に、書籍企画を入れることはあるけれど、自分となると話は別だし、子供の頃から国語は得意だったけど、実際に本を出すとなると、意味が違う。書き上げるまでは必死で、入稿してから不安になった。文章ってどうやって書けばいいんだろう?
 読者の方にはごめんなさい。順序が逆になるけど、文章を書くと言うことについて考えるようになった。以来、「文章論」を、片っ端から読んでいる。

 まず、野口悠紀夫著『「超」文章法』(中公新書)を読み直した。
 野口さんの本は、ほとんど読んでいる。経済学者らしい合理性が肌に合う。『「超」整理法』には感銘を受けて、ずっと「超整理手帳」を使っていた。一昨年に、グーグルカレンダー&iPadに換えるまで10年以上、使っていた気がする。『「超」文章法』も、論理的に整理されていて、頭がすっきりした。ともかく分かりやすい文章。「名文」は簡単に書けないし、そもそもの定義も難しいけれど、「わかりやすい文」は誰でも到達できるという考え方にも共感。
 全体を俯瞰して、前提を確認して、目的を明確にし、戦略と戦術をブレイクダウンするという構成は、野口氏の得意とするところだ。索引や参考図書も充実していて素晴らしい。強く薦められていた『理科系の作文技術』(中公新書)を読んでみた。
 とても参考になった。木下是夫さんの科学者らしい文章構造の分析。誤解、誤読がされづらい文を書くというのは、とても大切なことだ。

 併せて、文学者の文章本も読み始めた。そこで思うのは、小説家が文章論を書くのは、自分を語ることなんだなと。井上ひさしの『自家製・文章読本』(新潮文庫)、彼の戯曲を読むような洒脱さと、難解さがある。川端康成の『新文章読本』(新潮文庫)は、ノーベル文学賞受賞作家の文壇における立場が窺わうことができた。


 最も感動したのは、谷崎潤一郎の『文章読本』(中公文庫)だ。まず、その文体が美しい。書いてある内容以前に、文章そのものが綺麗なことに魅せられるってあるんだね。美声のボーカリストは、何国語の歌詞でも感動させられるように、谷崎の文体そのものが素敵だった。書いてある内容そのものは、論理的に矛盾があって、「名選手、必ずしも名コーチならず」という気もするけれど、美しい打撃ホームを見せるのが、一番の指導法なのかもしれない。
 スティーブンキングの『小説作法』(アーティストハウス)も良かった。自分の半生と文章論が、溶けあった内容。小説を読んだことは無かったけれど、作品にも人物に興味を湧いた。
 結局、僕がわかったのは、作家が文章について書くと、自己を語ることになるのだということ、そして文章力は、結局はコミュニケーション能力なんだということ。人に伝えるために、身を粉にするのだなと。

 音楽プロデュースも、コミュニケーション能力が問われる仕事だ。時には、自説に固執するアーティストを論理で説得しなければいけないし、スタッフの気持を鼓舞する必要もある。メディアの人たちをその気にさせることも大事。扱っているものが音楽という目に見えないものだけに、楽しそうに思ってもらわないといけない。それらは口頭で行う。べらべら喋るってこと。
だからだと思うけれど、何かについて書こうと思うと、そのイメージは話し言葉だった。口で話すときは、抑揚や音量や仕草の比重も大きい。大きな声で楽しそうに、キーワードを何度も繰り返すみたいなことが、論理よりも重要だったりする。文章を書くときはそうはいかない。飛躍した形容は混乱を呼びかねないし、文同士のつながりも大事だ。ボキャブラリーもあまり陳腐だと、下品な文になる。書き言葉には話し言葉とは違うスキルが必要だと当たり前のことを確認している。

 その意味でも、ツイッターは面白い。リアルタイムメディアというように、ストック(蓄積)ではなく、フロー(流れていくこと)を前提にしているし、反射神経で対応するのは話し言葉的なコミュニケーションだ。ただ140文字以内で簡潔に伝えるのは意外に国語力がいることも感じている。オープンで誰がみるかわからないから、誰が見ても良いという気遣いも必要だ。

 「言葉の力」は人間力の基礎スキル。ソーシャルメディアの発達で、人間力と国語力が重要になっている気がする。デジタルが進んでアナログ的なスキルが求められるのは面白いよね?
 
 そんな事を思いながら、ブログを書いたり、読書したりしています。新しい書籍の企画もいくつか検討中。もちろん、音楽プロデュースもやっている。文章は左脳で、イメージは右脳を使うらしいから、そういう意味では、脳みそはバランスよく活用できているのかもしれない。

 ソーシャル時代に対応して、自分の読書記録は公開しているので、興味のある方はご覧になってください。意見交換などできたら嬉しいです。

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