2013年5月26日日曜日

スポーツ四分類から学ぶ、グローバル化対応法。クールジャパン施策に活かせない?

 前回の僕のブログを、切込隊長こと山本一郎さんのYahoo!個人のブログで引用された。光栄なことだ。


 山本さんはしっかりとした見識をお持ちで、こちらの主旨も理解してくださっているようだが、「コンテンツ輸出の政府支援に慎重」という意味では、僕と真逆の立場だ。「武士の情けで見逃してって言ったじゃーん」と思いながら、反論を書こうと思ったけれど、白鵬対稀勢の里の一番を観ていて、気が変わった。ちょっと変化球視点で、コンテンツ輸出について語ってみたい。

 スポーツのグローバル化の形態を四分類してみることにする。自分の仕事がどれに当てはまるのを意識的である事は「頭の体操」としてだけど、意味があるはずだ。 

 まずは、野球について語ろう。米国で隆盛を極めるbaseballは明治期に日本に入ってきた、野球というネーミングが正岡子規だと言われている。明治時代の人たちは、欧米の言葉の意訳、翻案が上手だった。東洋に無かった様々な概念を上手に漢字に当てはめた。中華人民共和国なんて、日本からの輸入した語句を二つも国名にしているのだから、それだけでも、少しは日本に感謝して欲しいよね。

 野球は国民的スポーツと言われる。長嶋さんと松井秀喜が国民栄誉賞を受賞したのは記憶に新しい。WBCで二連覇した。野球のレベルは世界有数だ。、9連覇をした頃の巨人が、当時のドジャース戦法だったダウンスイングや送りバントなどをたまたま採り入れて、野球道の中心に据えたみたいな解説もあるようだけれど、ともかくルールや道具はbaseballのままで、作戦や投法、打法などの方法論で日本式を編み出して、世界一のレベルになったのだから、大成功例と言えるだろう。
 その成功があるから、読売新聞や高野連などの旧勢力が胡座をかいて、野球界の改革が遅々として進まないというところまで、「野球」型の特徴としてとらえるべきかもしれないけれどね。

 では、baseball以上に国際的なスポーツであるfootball、サッカーはどうだろうか?
 Jリーグが始まったときの100年構想が素晴らしかったと思うのだけれど、こちらは、グローバル基準に乗っかっている。イタリア、スペイン、イギリス、ドイツといった、世界の「本場」に日本選手が出ていって、結果を出し始めている。僕が10代の頃は、W杯に出れたらいいねっていっていた日本のサッカーだけれど、今の日本代表は、半分くらいの選手は、本気で優勝しようと思っているように見える。僕が生きている間に、日本代表がW杯の決勝戦で観られるかなと無邪気に思える。

 企業スポーツだった日本リーグを改組して、プロ野球のように親企業の名前をチーム名にせずに、欧州クラブをお手本に改革した姿は、賞賛に値する。ただ、まだサッカーについては一流国とは言えない。発展途上の新興国というところだろう。

 柔道の話もしたい。僕は、日本古来の武道だった柔道は、無くなって、新たにJUDOという世界スポーツができたのだと思っている。オリンピック種目にして、青の柔道着やポイント制を認めた時点で、もう柔道では無い。ルーツである柔道のスピリットをJUDOに反映させるという努力なら正しいことだけれど、いまだに一部の柔道関係者は、勘違いしているようにも見える。
 日本発祥のスポーツが世界に広がって、しかもトップレベルに日本のアスリートがたくさんいるのは素晴らしいことだと捉えた方が良いと思う。それが嫌なら、JUDOには参加しないことにして、日本だけで、一本勝ちしか認めない武道を極めればよいのだ。

 国際的な普及に柔道関係者が努力をして、せっかく、新しいJUDOという世界スポーツを創ったのに、その価値を日本人、特に柔道関係者が正当に評価できてないのは残念だが、それはともかく、日本のコンテンツを海外に広める際の方法論として、参考にするべき事はありそうな気がする。
 
 対照的なのは相撲。大相撲を観ると、近年は幕の内力士は半数近くが外国人だ。プロ野球やサッカーよりも、国際化が進んでいるとも言える。ただ、やり方は徹底している、全員、チョンマゲをして、まわしを締めているし、入れ墨をしている力士は居ない。日本語を話す。親方になるためには日本人国籍がマストだ。

 大切なのは、どこの国籍では無くて、大相撲の伝統が守られているかだと僕は思う。朝青龍は親方の教育が悪くて(朝汐って若い頃から、気が優しくて、決断力に欠けて、親方には向かなそうだった^^; )、中途半端な引退になってしまったけれど、白鵬は日本の伝統を背負ってくれている。中途半端な日本人力士より、よほど日本の美を感じる。

 60年以上の相撲ファン歴を持つ僕の父親は、最近は栃ノ心を応援している。グルジア出身の力士だ。愛国者で、決してリベラルとは言えないし、特に相撲に関しては保守的な父だけれど、国籍よりも相撲の伝統が大事だと言っている。相撲ファンには大切なものがわかるのだ。

 近年の相撲協会の不祥事は残念だったけれど、相撲に必要なのは変化では無くて、伝統を守るという覚悟だ。伝統を守るために組織形態が合わなくなっているなら改革は必要だけれど、僕は親方衆の気の緩みが最大の原因だと見ている。

 整理すると、
1)ルールはそのままで、方法論、戦術的な日本流を編み出して世界一になっている「野球」型
2)ルールも方法論も、グローバルスタンダードに対応すべく、組織を改革した「サッカー」型、但し、まだ発展途上。
3)日本発祥ながら、世界の新しいスポーツとなった「JUDO」型。しかも日本人選手は結構強い。
4)日本の伝統的なルール、様式に従えば、どんどん外国人を受けて入れ行くという「相撲」型。横綱が外国人になっても伝統は揺るがない。

 グローバル化への対応にもこれだけの方法論があり得るのだ。

 音楽で言えば、クラシックやジャズのミュージシャンは「サッカー」型で活躍している。コスプレは「JUDO」になりつつあるかもしれない。ニコニコ動画などの二次創作は「相撲」型の成功を模索すべきだと思う。
 欧米音楽を消化して新しい様式を産みだしたJ-POPは一時期、「野球」だったんだけど、最近は軟式野球になって、海外の試合では通用しなくなっているかもしれないなって反省したり。

 比喩には功罪あるもので、この四分類がどこまで有効かは、わからないけれど、グローバルへの対応法は、多様にあり得るということは、イメージできるんじゃない?

<スポーツについても時々書いてます>
●コンテンツとしての大相撲の価値 〜JUDOと相撲の二方向で国力向上に活用しよう〜

●松井秀喜の通算500号を祝いつつ、思うこと。

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